Primary Days

初出

オリンパスプラザ東京:2008年8月18日(月)~8月27日(水)

オリンパスプラザ大阪:2008年12月5日(金)~12月11日(木)

Primary Days   

 

写真 薈田純一 (わいだじゅんいち)

私は小学校の光景にずっと惹かれていた。ビデオや卒業アルバムの中にあるものではない。記憶の中に忽然と現れる光景だ。

「記憶」と書いてしまって、実は少し躊躇する。いつも思い出せるものではない。なにかの匂いや場面がきっかけとなって、まるで不意打ちのように光景が広がるから。匂いや感触、心情までもがよみがえるのだ。

 偶景というのだそうだ。偶景は取り立てて重大な記憶と言うわけではない。大抵は小さな事件とか出来事といった類のものだ。けれど偶景はとても印象深くて、私はショックを受けたように取り込まれてしまう。そしてそれは決まって小学校時代のものなのだ。

 

 

 

 I had always been fascinated by certain scenes of elementary school days. Not from the images of videos or graduation albums. It is scenery that suddenly arose in my memory. A memory, I said, but I hesitate, because these scenes that I suddenly see cannot be recalled at will. There is always a trigger, a sent or a smell, maybe scenery that make me remember. I am taken an aware as, and the scenery expands. The smell and touch, and even the emotions and sentiments that I had in that event revive.

 

 Those are called “Incidents”.”Incidents” are memories that is not particularly important to one, most of them are tiny events or happenings, but those "Incidents" that suddenly arose is so impressive and striking, I am easily caught in, or taken up like being in a shock, and "Incidents" that  I remember are always from the days of elementary school.

 

 Jun WAJDA

 

 


Visions of Trees

初出

コニカミノルタプラザ:2004年6月

 

Visions of Trees

 

                                                            写真 薈田純一 (わいだじゅんいち)

 

夜、暗いピントガラスにむかって、冠布をかぶる。外界よりなお暗い囲われた空間のなかで、ようやく木の輪郭を見つけ出す。

 冠布の外の人たちにとって、僕のしていることは不可解に違いない。雑踏の中で黒い布をかぶって、いまどき写真館でも見ない蛇腹のカメラで街路樹にむかっているのだから。

 「何してるんですかー」、と当然よく話しかけられる。何気ない質問。酔っ払いの絡み。職務質問。激励、苦情、はたまた怪しげな売人までがよってくる。最初はそれが嫌でなるべく避けていたけれども、あるとき気がついた。

 撮影のとき、僕はいささかなりとも木の世界の側にいるとおもっている。けれどもその世界に溺れてしまうのはどうだろうか。そんな時、ひとから「あなたは誰」と問われると、僕は自分の立っている位置をはっきりと知ることが出来る。それは木と人間、あるいは客観的現実と内的な現実の「はざま」に立っているということだ。「はざま」にいるからこそ両方の世界を結ぶものが出来るのではないだろうか。

 絵画と写真は従兄弟のようなものだけれども、撮影と言う行為は描くことよりもルーチン化されている。創造というより作業だ。その一見おもしろみのない作業を「はざま」でする。撮影は、木の側と人の側を同時に経験することでもある。その先にようやく一つのプリントがある。

 

 暗室の水洗桶のなかで、紙の繊維にたっぷりと水をふくんだプリントがゆらゆらと揺れている。そこに二つの世界が何ともいえず写しとられているのを運よく見つけられたとき、声をかけてくれて人にみてもらいたいなと思うのだ。


プライベート・チャイナ・旅の記憶

 

 

 かつて訪れた場所への旅で置き去りにしてきた自分の影に出会う。開封の胡同で、北京の街で、迷っていた自分がいた。広州から鄭州までの長距離寝台列車の中で、十三年前の僕が筆談で途方に暮れている。それらの無意識に採録された生々しい「時」が呼びさまされて背中がぞわっと粟立つ。

 空想が駆ける。置き去りにしてきた影はどんな人生を送ってきたのだろう。苦いか、喜びに満ちたものか。気がつけば影のことばかり考えている自分がいる。

 考えるな。旅をカメラに託してしまえ。レールが甲高い音を立てる。古くて新しいスターフェリー、緑海の深さ、高速艇の白い軌跡、今日の飯、腹痛、若い夫婦の床屋、値段の交渉。

 そうやって愚直に旅を刻んできたら、洛陽の路地でまた置き去りにしてきた影をみた。誰もいない路地に今度はかまわずシャッターを切った。

 そのとき、僕のプライベート・チャイナは旅の記憶となって別の物語を奏るのだなぁと思った。僕は少しほっとしたような気持で夕暮れの駅へいそいだ。